『いろいろな治療法』第5回
〇久しぶりの参加ですので、本当にすみません。
令和4年は、コロナに感染し、1月には踏み台でバランスを崩し、プラスチックの箱をつぶしその破片が左足に刺さり穴が開き、その穴が塞がったのが7月、7~8年前に罹った蜂窩織炎も騒ぎ出し、足も痛く、股関節も痛み出し病院で検査、「股関節、関節唇が悪くなっているがこのままで大丈夫でしょう」との診断で、悪くなったらすぐに来てくださいと言われた。
傷口がふさがらないのは、血液検査の結果、亜鉛が足りないと言われ錠剤をのみ始める。亜鉛が足りないとは初めての経験だった。
9月、家の前の欅の枝おろし、ゴミとして出すためには短く切ってゴミ袋に入れなくてはいけないので、鉈で枝切。
まだ、蚊がうるさく蚊取り線香を四方に置いて作業をしていた。低い台に座り枝を切っていく、4時間かかって、やっと終わった。それからが大変だった。立ち上がると足はふらふら、腰も痛く、なんと歩行がぎこちない、ゴミ袋に枝をつめると6袋あった。もうその頃は疲れて足も腰もふらふら。
お風呂に入り、マッサージをして筋肉の疲れをとる薬を塗り寝た。その夜は足が攣らなかった。
翌日から歩行時、脚が痛く、階段も一段一段両足をそろえて上り下りをしないとよろけて転倒しそうになる。ほんの一区間で、運転手さんに申し訳ないが、駅まではタクシーを使った。そのくらいつらかった。蜂窩織炎もあるので脚の状態を診ようと、МRIを予約して検査をしました。
先生が「検査の結果はそれほど悪くなく、血液の流れも悪くなく、まず経過を診ていきましょう」と話された。
学校の授業は畳の部屋ではつらいのでベッドの部屋でやりました。12月最後の授業は、足首の調整法があるので畳の部屋で行いました。まず大丈夫でした。
〇「いろいろな治療法」という題で書いております。
今回は私の病気と治療法を書いてみます。
子供の頃は元気が良く、小学校6年生の時は健康優良児で何かの大会に推薦されたようです。何故覚えているかというと、50メートル徒競走もあり、走るのが遅いので「もう少し早く走れないか」と言われた事があるので、覚えているのだと思います。
・野球・テニス・卓球と小さい球は得意ですが、バスケット、バレーボール等大きいボールは苦手です。
総合的に走るスポーツは良いのですが、ただ走るのは苦手ですね。(ちなみに、中学のクラス対抗は、1年で野球、2年で卓球―5人、3年でテニスのダブルスで優勝・高校3年でテニス―5人で優勝しました。)
・小学校6年生の時に中学生のブラスバンド部の人達が来て演奏をしてくれました。(その中に私が尊敬していて大好きな小林先輩がおりました)バンド演奏を観て、聞いているうちに、中学に行ったらブラスバンド部に入ろうと思いました。
入部の日に音楽教室に行くと楽器が並べてあり、入部希望者は20人前後、先生の指導の下、順に楽器を吹いてみる。
驚いた、クラリネット、トランペットは音が出ない。ショックだった。トロンボーンは音が出たが喜んではいられない、動かし方によりドレミがわからないのであきらめる。
コントラバスは音が出た、そして何よりキーが3本で、1、2、3の組み合わせでドレミが吹ける、その組み合わせを覚えればよいので簡単だと喜んだが、なんと、3年間伴奏だけでメロディーは「荒城の月」だけであった。
・運動部の方は、最初剣道部に入った。これは驚いた。毎日毎日素振り、それから先輩たち、5~7人が私を囲み、次から次と打ってくる。
防具を着けているが、はずれると痛い、特に頭を叩かれると、涙が飛び出すという表現があっている。我慢をしていたが、クラスの野球大会があり、3年生の野球部のエースのクラスとの試合で大きなセンターフライを取ったり、打ったりと活躍したので自然と野球部に変更した。1年の3学期にはテニス部に引っ張られてテニス部に入部した。
テニスコートは音楽教室のすぐ隣。ブラスバンドの練習が始まると先生に呼ばれる。部員3人が練習から抜けてブラバンに参加。3年間問題もなく両方の部活をやっていた。
・中学3年の頃から時々下腹が痛くなった、その時アイスクリームを食べると痛みが消えていたので、気にもせず下腹が痛くなるとアイスを食べていた。ところがその日は痛みが引かず苦しい。
ブラスバンドの練習を休み家に帰った。そして横になっていたら痛みが消えた。村の友達が遊ぶ声を聴き仲間に入って遊んでいるところへ音楽の先生がオートバイで通りかかり遊んでいる所を見て、「竹内、何やっているんだ、練習さぼって遊んでいるんじゃないぞ」「下腹が痛かったけど痛みが無くなったので遊んでいたんです」先生は怒って通り過ぎて行った。
その年の期末の通信簿、今まで「5」だったのが「4の上」になっていた。バスケット部の同級生、その話を聞いて「通信簿、4の上だろ、次は4で、絶対5にならないよ」と教えてくれた。まったくその通りどんなに良い点を取っても5にはならなかった。
その下腹の痛みは「腎臓結石だった」腎臓結石にはこれからの人生でいろいろと苦しめられるのであります。
・高校生になりました。(群馬県立の高校です)高校は2期制で、1年生の九月28・29・30日と休みです。28日に浅間牧場や鬼押し出し、北軽井沢と、友達と遊びに行く約束をしていました。28日の朝です。井戸端で顔を洗っている時、後ろから刀で切られたような衝撃を受け、そこにうつ伏せに倒れてしまいました。
3日間動けず寝ていました。一週間後やっと歩けて、群馬大学病院で検査をしました。胸椎が曲がっていると診断され運動を禁止されました。
思い当たる原因は夏休みに東京の大塚予備校に勉強に来て、お世話になっている人の近くに柔道の道場があり、夜道場に通っていました。その時外人さんとの乱取りの練習中何回も投げられていました。その時肩から真っ逆さまに投げられた時もありました。
それが原因かはわかりません。
落ち着いたので、渋川の関口病院に一週間に2回通いカルシュウム注射をしていました。背中は幕を張ったように重く、また時々背骨を電気が走り痛みます。痛くないときは、ソフトボールをしたり、運動も出来ましたが、痛みがいつ来るのかわかりませんでした。そんな日を送っていました。
〇不思議な人、お天狗さんと言われている人
(東洋医学の治療法の旅にも書きましたが本当に不思議な人でした、私の命の恩人の一人です)
私の友人のお姉さんが北軽井沢に病気を治す不思議な人がいると教えてくれて、お会いできるように紹介してくれました。
お会いすると、静かな老人のような人でした。
黙って、囲炉裏の灰を火箸で整えながら突然「あんたの背骨は7番、8番、9番が曲がっている。そのために背中が痛い、竹の根っことゲンノショウコウを煎じて飲めば痛みが治る」と話され、その背骨の原因は、子供の時に、土間から落ちたのが原因だと話された。
しかし、私は柔道の稽古で外国人との稽古中肩から垂直に落とされたことがあって、それも原因の1つではないかと思っている。
釣り竿を作る竹が家に植えてあったので、根を取って、ゲンノショウコウと一緒に煎じて毎日飲んでいたら、不思議な事に痛みが消えました。
高校を卒業後、お寺に1年間通って座禅や寺の生活をしながら浪人生活をしている時、ドイツのシュミットというお医者さんが鍼で病気を治療している姿をテレビで見て驚き、厚生省(当時)に手紙を出し、鍼灸学校の事を聞いた。寺での1年間の修行の後、東洋鍼灸専門学校に入学をした。
お寺での修行の時、朝晩の鐘をつくのは心から楽しかった。
寺での生活をしたお陰で、この後、素晴らしいご縁を頂く生活も始まった。
〇背骨の痛み、再発
鍼灸学校に通うため上京したため、竹の根っことゲンノショウコウを飲めなくなっていた。
4月の末の連休にクラスの先輩が旅をしようと、ヒッチハイクを教えてくれた。車を止めて乗せてもらう旅なんて知らなかった。
伊豆半島1周の旅で、2泊3日、1泊目は伊藤のユースホステル、2泊目は寺で修行をしていたので、住職が紹介状を書いてくれて、修善寺のお坊さんが経営する民宿に泊めて頂いた。
・その旅から帰った5月の初め、突然背骨に電気が走り痛み出す。クラスメイトの紹介で病院に行き、調べてもらったところ、お医者さんが少し困った顔をしていた。
クラスメイトが「こいつは寺で修行をしていたので何でも言ってくれ」と話すと、お医者さんは「じゃあ言うけど」といい、脊椎分離症とシュモール結節ともう一つの病名を言われ、「今の医学ではどうする事も出来ない、もって10年だから好きな事をすると良い」と言われた。
その時は平気だったが、病院を一歩出るとがくっと重悲しくなり、下宿へ帰って布団をかぶって泣いていた。
〇命の恩人、近藤浩さま
クラスメイトの近藤さんが突然訪ねてきて、近藤さんの家に連れていかれた。「病気なんか気にするな」といわれ、「良い治療器があるから大丈夫」と言って、野一色電気治療器を出して説明してくれた。
その治療器は写真のようで、白い丸い導子は半面がプラスチックで、もう反面が表面に鉄板があり、その真ん中に穴が開いて少し布が出ている。その鉄板を三重のさらしで覆っている。中に熱湯を入れ、そのさらしを濡らして患部に当てる。直流電流が流れ熱いのとピリピリ感を味わう治療器である。
最初の治療は、熱いのと、電気が流れ、筋肉はあらゆる方向に引っ張られ「えぇ~っ」という驚きが先であった。
近藤さんの家は下宿から歩いて15分ほどの所で一日おきに伺って電気治療をしていた。下宿の近くの学校の先生にも鍼灸治療をしていただいていた。
野一色式電気治療器はその頃は講習会で勉強する方法で、近藤さんはその会の顧問をしていた。
近藤さんも以前、脛骨が蜂の巣のように穴が空いていたのが、この治療器で治ったので私の話を聞いた時、この治療器と思って訪ねたとの事でした。
近藤さんのお陰で、この治療器を早く買うことが出来ました。
近藤さんのお宅に伺う時は治療費が無料で、ご飯まで頂いて、息子のように可愛がっていただいた。有難い事でした。
夏休みに入ると私は田舎に帰り、自分で治療をしていた。
夏休みが終わって学校へ行ってみると近藤さんがいない。連絡先もわからない、私は仕方なく、自分で毎日治療をしていた。
2年生になる春休みの前に突然近藤さんから絵葉書が届いた。
「尾道大橋の管理事務所に居ります。この手紙を読んだら、竹内君は飛んでくるでしょう」と書かれていた。
春休みに入るやヒッチハイクで尾道大橋まで行きました。
〇(野一色治療器は50年経った今でも治療として使っております)
つづく