『接骨院の診察室』 第5回
僕が尊敬してやまない医師たちが持つ中心軸。その勇気と行動。~その2
僕に医療者としての「スピリット」と「勇気」を与えてくれた、たくさんの医師たちの言葉と行動。
前回はその中から、エピソード1.としてM先生のお話を一つ紹介させていただきました。
今回もM先生の別のお話を書こうと思います。
M先生は、僕が整形外科クリニック勤務時代に外来研修に派遣していただいていた先の、総合病院の整形外科部長でした。
僕たち理学療法室スタッフは、勤務先のクリニックの院長のご厚意で、交代で週に1回M先生の外来診療を丸1日見学させていただくという、ありがたい機会を与えられていたのです。
そこには何十人もの様々な疾患や外傷の患者さんがいらっしゃいます。
そこでM先生の診察と診断と治療を真横で見させていただけるというのは、僕たちにとってものすごい勉強になりました。
教科書で学ぶのと違い、問診の“機微”から整形外科的テスト法を行う際の力の入れ具合その他、膨大な情報を習得させていただきました。
ある日、手術後の手の経過を見せに来た患者さんがいらっしゃいました。
少し不自由ながらも、指を動かしたり物を掴んだりができていました。
M先生も患者さんも、なぜかとても嬉しそうでした。
その後M先生が僕に送ってきてくださった、先生の随想録の中に、その患者さんのお話が出ていました。
M先生が下さった随想録はすべてくまなく読んだ後、まとめて大切に保管していたのですが、数年前に引っ越しした際に、奥にしまい込んでしまったまま大量の書類に埋もれて、現在捜索が困難な状態にあります。
ですので記憶だけが頼りになりますが、今回は僕の頭にこびりついたこのお話を紹介させていただきますね。
M先生が外来担当のある日、工場の機械で手首を完全に切断してしまった患者さんが運び込まれてきました。
M先生は応急処置を部下の整形外科医に命じました。
そしてご自分はまず待合室にあふれた大量の患者さんの診察を大急ぎで行い、終わると同時に、手術室に駆け込んでいきました。
そこでM先生は驚くべき光景を目にします。
何と、切断されたところの末端形成術がすでに完全に終えられてしまっていたのです。
患者さんはもはや“手首から先の無い”障がい者となっていました。
「手はどうした。」
M先生は廊下に出て付き添いの女性に聞きました。
女性はおずおずと袋を出しました。
中には切断された手が入っていました。
氷で冷やされており、状態は悪くありませんでした。
M先生はその場でめまぐるしく考えました。
時間にしたら一瞬だったのだろうと思います。
しかしM先生はそこである決断をしました。
M先生はその時のマインドストリームを、随想録の中で次のように語っています。
「自分は何か判断に迷った時、“これが自分の家族だったらどうするだろうか”と考えることにしている」
M先生は「これが息子だったら、何の迷いもなく、手首の接着に挑戦するだろう」と思ったそうです。
「それなら、やることは一つだ」とM先生は直ちに心を決めます。
「手首の接着にトライしてみようと思います。」
M先生が廊下の女性にそう伝えた時に、その女性が見せた何とも言えない安堵の表情。
これはいまだに覚えている、とM先生は後に仰っていました。
M先生は手術室に戻り、部下の医師に退室するよう命じました。
そして部下が塞いでしまった断端の縫合糸をすべて引き抜きました。
創面を露出すると、1人で手首の接着に取り掛かりました。
何時間にも及ぶ手術でした。
僕は手術はもちろん素人ですが、その大変さは想像に難くありません。
手はとても複雑な構造をしています。整形外科の中に「手の外科」という専門領域があるくらいです。
骨を繋ぎ、血管を一つ一つ繋ぎ、神経も一つ一つ繋ぎ、それぞれの指を動かす腱も、すべてきれいに繋がなくてはなりません。
(のちに高校クラスメートで現在都立病院の整形外科部長をしている友人医師に聞いたところ、手首の接着は実はそれほど難易度が高くはないとのことでしたが、手の外科専門医でもないM先生にとっては簡単な手術ではなかったと思います。)
その後は壊死との闘い。
何度も再切断せざるを得ないかという絶望的状態になっては、懸命な治療で持ち直して、というのを繰り返し。
ようやくそれが落ち着いたと思ったら、今度は腱の癒着との闘い。
これを解決しなければ、手首はついたものの指が動かせず、使い物になりません。
そこでM先生は北海道からわざわざ友人の手の外科専門医を呼び寄せて、一緒に再手術を行います。
その結果、一旦は完全に切断されてしまった手が、退院する時にはちゃんと箸も使え、字も書ける手として、患者さんに戻ってきました。
僕が目の前で見させてもらった患者さんでした。
―何かに迷った時。どう考えるか。何に基づいて判断していくか。―
これは人によってそれぞれだと思います。
M先生にとってそれは、「一旦自分の中心軸に立ち返ってみる」という事だったのだろうと考えています。
そしてM先生にとっての中心軸は、「患者さんを自分の家族だと思って最善を尽くす」という事だったのだろうと思います。
同じ職場の医師を束ねる立場で、部下の医師が行った手術をその場でふりだしに戻して一からやり直す、というのは、勇気がいることだと思います。
部下の反感を買うでしょうし、医療経済の面でも、自分の労力や時間という面でも、リスクという面でも、「そんな事はしない」という医師の方が、もしかしたら多いかも知れません。
でも、正しいのはどちらか?と問われれば、間違いなくM先生の取った行動だと僕は思います。
少なくとも患者さんにとっては、その後一生「手のない人生」を歩むか、「使える手を戻してもらった人生」を歩めるか、それはものすごく大きな違いでしょう。
医学書の中には、M先生の中心軸とは反対の立場を取る専門医の主張が書かれているものもあります。
「医師は患者さんを家族だと思って診てはいけない。一見良い事のようにも見えるが、患者さんに過度に感情移入することで、冷静さを失い、判断を誤ることがあるからだ。だから、患者はあくまでも患者として診るべきであって、決して家族に置き換えて診てはならない。」
…このような内容が書かれた医学書も読んだことがあります。
しかし、僕は違う考えです。
そもそも、患者さんを家族だと想像してみるだけで冷静さを失い、適切な判断ができなくなるような人間は、医師をやめた方が良いと思います。
別の仕事をした方が良い。人様の人生を直接左右する類の仕事に携わるのは不適格だと思います。
また、もしそういう事で冷静さを失うのであるならば、その医師は自分の家族が大怪我をしてしまい、助けることができるのが自分しかいないという状況に陥った時に
…「家族を助ける事すらできない」という事になってしまいます。
本人にとっても大変残念でしょう。
医師という仕事に就く人間に求められるのは、
優秀な頭脳や知識や技術だけではない。
最も大切なのは、
どんな状況でも冷静さを失わないで判断できる精神力の強さと、
目の前の患者さんを自分の家族だと思って最善を尽くしきる優しさと、それを妨害するどんな壁にも負けないで立ち向かう勇気だ。
…そう僕は思います。
この3つとも、身に付けるのはとても難しいことだと思いますが、
だからと言って、医師を続ける気を持つ人々は、そこから逃げていて良くはないと思います。
また、もしこの3つがなければ、どんなに知識や技術があろうとも、役に立たないケースがあるばかりか、逆に人を不幸に陥れてしまう事にもなりかねません。
それは患者さんにとってだけでなく、医師本人にとっても不幸な事だと思います。
M先生の背中を実際に見て学ばせてもらった、M先生のこの「中心軸」。
これはそのまま、今の僕が大切にしている「中心軸」に繋がっています。
紹介状のやり取りを通して、今まで30年近くたくさんの医師と関わってきて、この中心軸を共通して持っている医師たちと、そうでない医師たちがいるのを実感してきました。
当然ながら、医師という資格は、医学部に入学できる偏差値と、その後に国家試験に合格するだけの知識を取得すれば、自動的に手にすることができるもので、
医師の資格それ自体は、「人格」や「人生哲学」や「精神力」や「冷静さ」や「優しさ」や「勇気」といったものについては、何ら担保するものではありません。
いつの日か、それが担保されるような教育や、実効性のある仕組みが、整備されるようになると良いな、と思っています。
ただ僕は実体験として、M先生のような医師もたくさんいることを知っていますので、
「私たちは希望を捨てることはまったくない。いつかそういう教育や仕組みが作られる時が来る。」と思うのですよね。
次回は、ある日手術中の現場で起きたハプニングと、そこでM先生が取った「誠意と勇気ある行動」を、もう一つご紹介しますね。
僕も思い出すたびに元気が湧いてくるお話しです。
どうかお楽しみに。
(次回は10月1日配信となります。)