『接骨院の診察室』 第7回
~患者さんのために、接骨院ができること。 そしてそのために、私たちに必要なこと。~

まえがき

医療という仕事に末端で携わる身として、僕が「中心軸」に持ってきたもの。これが形成されるベースとなったのは「尊敬する医師たちの行動」でした。これを前回まで3回連続で、いくつか紹介させていただきました。

ところで話は突然変わりますが。

海外の大学で経営学を学んでMBAを取得した友人から、以前に次のような話を聞いたことがあります。

「人間が経営やその他何らかの活動に取り組むにあたって、一番大切なのは“ビジョン”

『何のためにやるのか。どう在りたいのか。』ということ。
これを明確に言語化して認識しておくことがとても大切。

これが定まれば、『ビジョンを達成するためにやるべきこと』が見えてくる。
それが“ミッション”

そうすると『ミッションを達成するために必要な重要事項』が決まってくる。
これが“オブジェクティブ”

ただ『あれもこれもしなければ』、というだけで、その時その時の判断でやみくもにいろいろな行動をするのではなく、この系統だった考え方を持っておくことで、本当にやるべきことが、優先順位も含めてさらに具体的に明確に見えてくる。

ビジョンは羅針盤。これがあれば、軌道が大きくずれていってしまうことはない。

「ビジョン・ミッション・オブジェクティブ・ストラテジー:VMOS」という考え方。

これを僕は元々知っていたわけではありませんし、こういった考え方をベースにしようと意識して戦略的に仕事をしてきたわけでもありません。

でも、自分がやってきたことを振り返ってみると、結果的にこの考え方が示すそれぞれのワードに、合致するコンテンツがあり、まさにその順番に自分の行動を決めてきたように思います。

僕の中の「中心軸」。

言い換えるとこれが「Vision」ということになろうかと思います。

今回は、それに続く「Mission」、そしてそれを支える「Objective」に相当する部分のお話をしようと思います。

それによって、僕が取り組んできたことの全体像と、何をお伝えしていきたいのかが、皆様にもよりお分かりいただけるかと思います。

この連載では、初めに2022年1月に経験した「くも膜下出血」の症例について、第1回から第3回まで連続で紹介させていただきました。

その後また3回シリーズで僕が尊敬する医師たちのお話を通して、僕が中心軸としてきたものを表現してみました。

次回から再び初めの形式に戻り、いろいろ個別の症例を取り上げて、具体的に詳しい顛末をできるだけ分かりやすい形で連載していきたいと思っています。

その前に今回はひとまず、“総論的なお話の締めくくり”をしたいと考えた次第です。

では。

「患者さんのために接骨院にできることは何があるのか。そしてそのために必要なことは何か」について、いくつかの症例にごくごく簡単に触れながら、お話していきますね。

大切なミッション~「病態推論」

さて。

患者さんを拝見するにあたって医療従事者に求められる最も大切なものとは何でしょうか。

それはもちろん「治す」ことでしょう。
しかしそこに着手する前にもっと大切なことがあります。

それは「病態推論」
これが私たちの大切な「Mission」の一つになります。

すなわち「何が問題で、その原因は何か」をまず初めにきっちり突き止めることです。

つまり、患者さんに起こっている「症状の本質は何か」を掴むこと、

そして「それを引き起こしている原因は何か」を、様々な科学的手段を使って突き止めることです。

接骨院が専門とする外傷の病態推論

ところで接骨院とはそもそもどんなことをするところか、一般の方はご存じでしょうか。

接骨院には、通常は骨折や脱臼や捻挫などの外傷の患者さんが来院されます。
(切創のように体外への出血を伴うものなどを除いた外傷が業務範囲になります。)

私たちは、まずどんな外傷かを特定して、それに対して「治す」ための施術をするわけです。

ただ、「外傷の特定をする」と一言で言っても、肩関節の脱臼のように一目で特定できる場合もあれば、綿密に観察して初めて怪我の部位と程度が判明するような、なかなか分かりづらいケースも多々あります。

いくつか例を挙げてみますね。

cf.1 まず、患者さんが痛みを訴える「場所」ですが、
これが必ず「損傷部位」と一致するかと言うと、そうではないこともよくあります。

例えば、
バットを振った瞬間に手を捻じり、患者さん自身は「指を痛めた」と感じて整形外科を受診したところ、「レントゲンで骨に異常はないから指の捻挫ですね。」と、指を固定されていた女子ソフトボール部の患者さんがいらっしゃいました。

詳しく拝見した結果僕は、損傷部位は指ではなく、手首近くにある有鉤骨という骨で、その鉤のように出っ張った部分の骨折だと判断しました。

バットのグリップエンドで痛めやすい骨です。

有鉤骨骨折は通常の2方向のレントゲン撮影では判明しづらく、もっと多方向のレントゲンあるいはCT検査をしないと見逃されてしまうことも多い、手術適応の骨折です。

直ちに画像診断クリニックにCT検査を依頼して骨折を確認したのち、提携先総合病院に紹介して手術をしていただき完治しました。

cf.2 また「歩けるから足の大きな骨折はないだろう」と思ったら大間違い、というケースもよくあります。

転倒したが、歩くこともできるし、痛めた方の足で片足起立もできてしまうし、ニコニコしながら股関節をかなり大きく曲げたり伸ばしたりできてしまったとしても、老人の場合、大腿骨頚部骨折という大きな骨折(太ももの付け根の骨折)が存在していることはいくらでもあります。

大腿骨頚部骨折は、ある特定の方向に動かして負荷を加えると耐え難い痛みを起こすのですが、そういうことをしなければ痛みは我慢できるレベルというケースも、特に老人の場合多々あります。骨折部がしっかり噛み合っていて、それにより動揺性自体は酷くなくなっていることがあるからです。

その場合、その特定の方向に実際に動かしてみて確認しないと、骨折があるかないかは分かりません。

しかし治療せずに放置すれば、激痛でなくても痛みは続きますし、下肢の短縮などの後遺障害を残すことになります。

cf.3 そして日常的にとても多いのは、「レントゲンで骨に異常はないからギックリ腰(腰部捻挫)です」と診断され湿布だけ出された、という急性腰痛の患者さんに、実は思い切り脊椎圧迫骨折が存在していた、というケース。

脊椎圧迫骨折は、初期にはレントゲンで全く異常が見つからないことが非常に高頻度であります。この場合、診察時にベッドサイドで調べた身体所見を基に、診察した側が「圧迫骨折の疑いがある」と判断して、あえてMRI検査を追加オーダーしないと画像診断は付きません。

そうしないと、「ギックリ腰ですね」と湿布だけ出されて、コルセット固定も何もせずに帰された患者さんは、痛みに耐えながらも普通に生活してしまいますから、1ヶ月もたてば骨折した背骨はどんどんぺちゃんこに潰れていってしまいます。

これは決して、そのまま自然に元に戻ることはありません

cf.4 疲労骨折もそうです。発生初期はレントゲンには「その多くが」映りません。レントゲンだけで診断しようとした場合、症状が出始めてから1か月くらい経って初めて、疲労骨折していた部分に“ある変化”(骨折の治癒過程で現れる仮骨という組織が形成されている像)が映ることで、やっと診断が確定することもよくあります。

もし臨床所見で診断を付けるのでなく、画像所見の裏付けも欲しいと思うならば、早期診断するにはMRI検査が不可欠です。MRIであれば、ある条件下で早期からはっきりと疲労骨折像が描出されます。

しかしここでMRI検査を追加する判断がなされるかどうかは、まずは「診察時に診察者が疲労骨折を疑っているということ」が前提になります。

cf.5 蛇足ですが付け加えれば、「骨壊死」という病気にも全く同じことが言えます。

例えば「膝関節捻挫」「変形性膝関節症」と診断・治療されている中に、実は「特発性膝骨壊死」であるケースが大変高頻度で見られます。これも初期はレントゲンには一切映らず、MRIでないと画像上は見分けが付きません。超初期にはMRIにすら映りません

骨壊死にはある特徴的な臨床所見があるのですが、もし骨壊死だった場合、一定期間の免荷(松葉杖を使うなどして足に体重を全くかけないようにすること)が必要で、そうしないと壊死部の骨が陥没します。これは「不可逆的変化」ですから、のちに関節に大きな変形をきたすことになってしまいます。

ですから画像上まだ見分けが付かない期間は、「臨床所見のみで“骨壊死の疑いあり”と判断すること」が大変重要ということになります。

このように外傷なのだから単純に見ただけ、あるいはレントゲンを撮っただけで診断がつくものばかりと思ったら、そうでないケースはまだまだ山ほどあります。

外傷においても「病態推論というMission」がいかに大切かということが、ここに現れてくるわけです。

重篤な疾患が疑われる患者さんがいらしたら。私たちはどう向き合えば良いのか

さらに重大な問題は、外傷を訴えて日々来院される患者さんが、「100%外傷の患者さんばかりとは限らない」ということです。

患者さんご自身も外傷かと思って来られるわけですし、こちらもそうだと思っていたら実は大間違いで、全く別の「私たちの業務範囲外の疾患」が原因だったというケースも、かなり多くあります。

例えば。

「今歩いていて右膝をガクッとやってしまった」と、右膝の不調を訴えて患者さんが来院されたことがあります。

しかし拝見したところ、膝には何の異常所見もありませんでした。

そこで原因を特定するため、さらに神経学的所見(脳と脊髄と、全身に分布する末梢神経の機能を調べること)を追加で拝見した結果、最終的に僕は「ガクッとなったのは今まさに脳梗塞を起こしたからだ」と判断しました。

今まさに歩いていた最中に左の脳梗塞を起こし、その結果突然右の不全片麻痺が現れ、右膝の力がガクッと抜けたのだと推論したわけです。

脳梗塞は、特殊な例を除き通常は頭痛がありませんし、程度によっては意識も清明で、患者さん自身も「頭が変だ」とは自覚していないことが多くあります。

このケースでは直ちに救急車要請をして、搬送先の病院で「脳梗塞」と確定診断され、入院加療となり、命は救われました。

しかし、もしそのまま右膝を施術して帰していたら。

後にセカンドアタックでもっと大きな脳梗塞を起こしてしまって亡くなられていた可能性も、十分にあるのですよね。

そのほかにも、「外傷は存在していたけれども、施術に通っていただいている中で、それまで患者さん自身も予想しなかった別のもっと深刻な病気を見つけ出す」、というケースもたくさんあります。

当院で腰痛に対しての施術をしていた患者さんがいらしたのですが、この方は通院している途中からこうもおっしゃるようになりました。

「おなかの調子がずっと悪くてね。かかりつけ内科で診てもらったら『風邪からの腸炎です』と言われたんです。それでもうだいぶん前からそのクリニックで薬をもらって治療はしているんですけどね。」

お腹については医師が既に診られているなら、専門家でもないこちらの出る幕ではないなと思っていましたが、ある日の施術中に、この患者さんが深刻な腹部内臓疾患を疑わせる“ある気になる情報”を伝えてこられました。

念のため診察室で問診を追加したのち腹部の触診その他を行ってみたところ、「肝臓または右の腎臓に何らかの深刻な問題があるのではないか」と結論しました。

直ちに総合病院を受診していただきました。

翌日には「胆嚢癌の肝臓転移」であることが判明しました。

宣告された余命は、「3か月」でした。

 

外傷であれば、自分の専門分野ですから施術をして治していけば良いのですが、そうでない疾患の存在が疑われた場合、このように私たちの役目はがらりと変わります

疑われる疾患を専門とする診療科の専門医に、患者さんを直ちに紹介する必要が出てくるのです。悠長にはしていられません。「直ちに」です。

ここでそれをせず漫然と自分で施術を続けた場合、そのツケは必ずやってきます。しかもそれは私たちにではなく患者さんにやってきます。

「患者さんの役に立ちたい」と思って日々仕事をしている私たちにとって、これは耐え難いことでしょう。患者さんが逆に不幸なことになってしまうのですから。

進行性の疾患でなかったならば、患者さんが被る不利益は、「症状に耐えなくてはならなかった期間を私たちのところで無駄に浪費してしまった」、ということくらいで済むかもしれません。

しかしこれが進行性の疾患であったり、それも重篤な疾患であったりした場合、その後に医師の治療を受けたとしても、もっと早ければ残ることのなかった後遺障害に患者さんが苦しむことになったり、場合によってはかけがえのない命を失ってしまうことにもなりかねません

これは医療従事者の端くれとしても、どうしても避けたいところです。

病態推論には“勇気”も必要

「段取り8分、仕事2分」という言葉がありますが、まさにその通り。

他のいろいろな仕事でも言えることかと思いますが、実はこの「段取り」が仕事全体の中の大きな割合を占めるものだと思うのですよね。

これまで述べてきたとおり、医療の場合、ここで言う“段取り”が「病態推論」に当たるわけです。

段取りに当たる「病態推論」が8分、仕事に当たる「施術や治療」が2分、ということになります

医師は、診察を通して「病態推論」をし、それを様々な検査で裏付けをして「確定診断」にまで持っていきます。しかし私たちは医師ではありませんので、行うのはあくまでも「病態推論」の段階まで。

とは言え、これが私たちにとっても仕事の1丁目1番地だと思っています。

これがしっかりできていないと、何も始まりません。

いろいろな角度から観察し、調べ、科学的根拠を持って病態推論を積み上げていく。そしてそれを一旦一つの結論にクロージングする。

そこではじめて、私たちの次の行動が決まってきます。

「自分で施術する」か。「直ちに専門医に紹介する」か。

もちろんこの病態推論は、次の行動に移ったら終わりなのではなく、その後もずっと続けていくべきものです。

経過を見ていく中で、一旦クロージングした病態推論を、完全にひっくり返して一から推論し直し、別の結論を見出すことも多々あります。

また一度医師に紹介して診断が付いた後も、その診断では説明のつかない新たな所見を自分の方で見つけたら、再度同じ医師に宛てて情報提供書を書きます。それを読んだ医師が診断を変えてくれることもあります。

信頼できるその医師もまた、「真実」を追い続けているからです。

ですから私たちのように患者さんと関わる仕事の中では、一度導き出した結論で「完全に安心しきること」は決してやってはならず、常に疑いの目をもって、「何かおかしいことはないか」、「何か矛盾点は出てきていないか」ということを、理知的に冷静に観察し続けなければなりません。

これは手間もかかりますが、実は少々勇気もいることなのですよね。

どれほど時間と労力をかけて調べて考え抜いて至った結論であったとしても、一つでも矛盾する事実や別の可能性に気付いたら。

その瞬間に今までの努力をすべて捨て去って、一から調べ直して考え直さなければなりません。

私たちが見つけなければいけないのは、患者さんの中にある「真実」だけだからです。

大変なようですが、そうしていかないとやはり真実の病態には到達できないのですよね。

 

ちなみに同業者の先生方の中には、「専門医に紹介状を書く」ということに少々ハードルを感じる方もいらっしゃるかと思います。

「違ったらどうしようか」とか、「もしかしたら軽症かもしれない患者さんをこんな大きな病院に送って怒られないだろうか」とか、いろいろ心配になることがあるかと思います。

しかし、たとえ紹介先の医師が診察した結果、こちらが心配していた病態は結局「存在しない」という結論になったとしても、「疑うに足る科学的根拠」があり、「それに基づく医学的論理的な病態推論」がなされていたら、医師の方もこちらを支持してくれるようになるのですよね。この症例は自分たちに紹介して正解だと。

だから「決して臆することはない」と僕は思うのです。

正しい診断にたどり着くまでの時間が、患者さんに戻ってくることはない

さて、命に係わるような進行性の病気ではなかったものの、「時間を浪費したこと」「たいしたことではなかった」とはとても言えないな、と感じた、こんな経験もあります。

ある日、腰痛患者さんを施術している時、ご本人から「実は右肩もすごく痛くて。これには本当に長い間悩まされているんですよね。」というお話が出ました。

その方は続けてこうおっしゃいました。

「でも、もう医師の診断は付いているんです。五十肩だと言われました。その整形外科でかれこれもう15年間続けて治療しているんですけどね、一向に治らなくて。」

それを聞いた時点で僕は確信しました。「これは五十肩ではない」と。

五十肩がそんなに長く続くはずがないからです。

必ず別の原因が存在するはずだと考え、もう少し続けてお話を伺うことにしました。

そして診察室に移って身体所見をじっくり拝見した結果、最終的には服を脱いでいただいて行った「視診」と「触診」によって、全く違う病態を見つけました

それは強烈な痛みをもたらす疾患でした。

肌を露出して目で確認することで肩関節の外側に小さくうっすらと盛り上がった部分があるのを見つけ、それを指で軽くコロコロと刺激すると激痛が誘発されたことから、ある病態の存在を確信したのです。

それは神経鞘腫という、良性ではありますが、腫瘍性の疾患でした。

直ちに画像診断クリニックにMRI検査を依頼して確認したのち、総合病院の専門医に紹介して、手術をしていただきました。

その結果、患者さんが15年間にわたって苦しんだ痛みは、「ゼロ」になりました。

結果オーライとは言え、この患者さんが「服がこすれても痛い」と表現されていた、生活に支障をきたすレベルの痛み、これに毎日苦しみ続けた15年間という時間は、もう決して戻ってきません。

私たちが重大疾患の患者さんのお役に少しでも立つためには

ものごとに100%ということはなかなかないですし、しかも医療の最底辺に位置する接骨院で、私たちがすべての疾患を見つけ出すことは当然できません。私たちは血液検査も尿検査も画像検査も自分の接骨院ではできませんから、医療の中では本当に微力な存在です。

しかし無力ではありません。

私たちでも見つけ出すことができる疾患も、これまで少し紹介したように実はたくさんあります。

見つけ出せるのであれば、見つけ出さなければなりませんよね。

「あの時この所見を取っていたら」「あの時これを疑っていたら」、と後から思っても、時間は巻き戻しできませんから、本当にもう、後の祭りなのです。

「いや、そんな重大疾患にかかっている患者さんは、私たちの接骨院なんかに来ないだろう」と同業者の先生から言われたことがあります。しかしそれは残念ながら事実と異なります。

「あらゆる疾患の患者さんが私たちの接骨院には来院し得る」と考えておくべきだと思います。

私たちが受ける国家試験には、看護師さんなどと同様、「一般臨床医学」という科目があります。ここではすべての診療科の疾患を網羅してその概要を学びます。私たちにとっては、免許取得後は専門外となる疾患ばかりです。

しかしここで学んだ疾患はすべて、接骨院をやっていく中で必ずいつか遭遇すると思っていた方が良いと、僕は実感しています。

でも、様々な検査手段があるわけでもなく、医師のように高度な医学教育も受けていない私たちが、どうやって専門外の疾患など見つけ出せば良いのか。

その答えは難しいものでは決してなく、「至ってシンプル」だと僕は思っています。

検査手段はなくても、見方を変えれば医師が診察室で行うこと、すなわち「問診」「身体所見」を拝見すること自体は、やろうと思えば誰にでもできます。

精度を上げるには当然しっかり訓練することが必要ですが、訓練しさえすれば私たちでもできます

もちろんこれは、素人が勝手に医師のまねごとをするという意味ではありません。

医師でない私たちは「診断すること」、すなわち診察の結果至った結論を断定的に患者さんに告げることは決してしてはなりません。あくまでも「病態推論」するところまでです。ただ、この「病態推論」が、後に医師に紹介した結果判明する「確定診断」と合致するかどうかは別として、「“疑わしい疾患”を見つけ出して、専門医に紹介して診断を仰ぐこと」はできる、という意味です。

 

また医学知識についてですが、これは初めはたとえ少なくても、その気になればどんどん自分で補っていくことができます。

各診療科の専門医が学ぶ医学専門書を使って、自分も勉強すれば良いのです。

時間をかけてでも地道にコツコツ独学することで、医学知識というものはいくらでも深めていくことができます。と言うか医療従事者はそれを一生常にやり続けなければならない存在だと僕は思っています。

MRIやCTなど画像検査の専門書もたくさんありますので、患者さんの画像データを読影する力を自分で身に付けていくことだって努力次第でできるのですよね。

ちなみに僕の接骨院には、各診療科の各領域の医学専門書が常時100冊以上置いてあります。幾度となく読み返してきた本ばかりですが、必要に応じて、該当ページを開いては確認する作業を何度も繰り返していく中で、多くの医学知識を自分の中に定着させていくことができます。

必要な場合は自分で最新の医学論文を調べることもできます。

また医師会の生涯学習単位にも認定される、総合病院主催の勉強会というのもあります。医師を対象としたこういった定期的な勉強会にも、病院側からお声掛けをいただいて参加させてもらえるようになれば、これも非常に大切な勉強の機会になってきます。

そして何より貴重な勉強の機会となるのは。

患者さんの紹介を通して専門医とやり取りをすること、そのものです。

①専門医に宛てて、「患者さんのエピソードや自覚症状などの問診結果」と、自らが拝見した「身体所見」、「病態推論」、そして「推測疾患名」までを、自分で詳しく紹介状に書いてお渡しし、

➁専門医から、その診断結果とコメントが書かれた報告書を受け取り、

➂医師が治療開始してからの患者さんが治りきるまでの経過を、最後まで自分の目で見ていく。

この3つを繰り返し行っていく中で、フィードバックされた情報は自分の中に蓄積され、病態推論の精度はどんどん上がっていきます。

重要なオブジェクティブ~「問診」と「身体所見」~病態推論のための大切な手段

さて、これまで述べてきたように、私たちの日常業務においてはまず初めに大切なのは「病態推論」です。

それをするにあたって欠かせない基本的手段は何でしょうか。

それが「問診」「身体所見」です。

これがいわば「Objective」。具体的に必要なやるべきこと。

最後にこれについて少し具体的にお話しますね。

「問診」とは言葉そのままの意味で、「会話を使って患者さんから必要な医学情報を引き出し、カルテに記録しながら病態推論を積み上げていくこと」です。

ただやみくもに定型的な質問を連発すればよいのではなく、病態推論をしながら必要な質問を追加していくというのがミソですね。

と言うのは、型にはまったフローチャート式の問診だけでは「陥りやすい罠」というのがありまして。

それだけですと「初めに想定した疾患領域以外の疾患」に想像力を働かせにくくなるという側面があるのですよね。先ほど紹介した脳梗塞の症例などはその典型例で、このフローチャート式のやり方だけで満足していると、見つけ出すことが難しくなる恐れがあります。常に病態推論と同時進行で「問診をその場で“デザインしていくこと”」が大切だと僕は感じています。

医師の診断においてもそうで、診断の90%はこの問診で決まると言われています。実は画像検査などはそれを裏付ける補助診断に過ぎないとされているのですよね。それほど問診は大切です。

問診のほかにはもう一つ、「身体所見」というスキルが私たちにとっては大変重要な役割を果たしてくれます。

「身体所見を取る」というのはどんなことかと言うと、問診で得られた情報を手掛かりに、診察室で患者さんを目の前にして、実際に体の状態や機能などを確認する作業です。

方法としては見たり触ったり叩いたり、動かしてみたり押してみたり音を聞いてみたり、太さや長さや角度や時間や回数を測ってみたり、光を当ててみたり音叉で振動を与えてみたり、場合によっては臭いを嗅いでみたり…といったことが行われます。

接骨院でも拝見できる身体所見は、何も整形外科的身体所見だけではありません。

脳神経外科・神経内科的身体所見から、循環器科的身体所見、消化器科的身体所見、皮膚科的身体所見などなど、多くの診療科の身体所見があります。

私たちが行う一般的なレベルでは、使用する器具は7つ道具と言われる最小限のもので十分で、特別な機械などを使って行うものではありません。

接骨院で拝見し得る代表的な身体所見を、便宜上僕は次の4つに分けています。

それは、「視診」、「触診」(「聴診」を含む)、「神経学的検査」、「整形外科的検査」

これが私たちにとっては最も基本的な4つの手段です。

しかしそれぞれから得られる情報は膨大です。

触診なんかと言って軽く見ることはできません。

触診、すなわち実際に触ってみるという原始的な方法で、腹部内臓の悪性腫瘍や甲状腺癌や乳癌などを、実際に発見してきましたので、この大切さは身に染みています。

患者さんに触りもしないで、「必要な情報はもう得られた」と考えるのは危険です。

視診はどの診療科でも重要ですが、特に皮膚科の医師などはこれで一発診断に至ることも多いと言われています。僕も皮膚癌を発見したことが何度かありますが、それはこの視診、すなわち目で見て観察するという原始的な方法によってでした。

このように病態推論においては、問診結果と併せて、この身体所見から得られた情報が非常に大切で、これらが科学的根拠となるわけです。

問診と身体所見。これが私たち医療従事者のコアコンピタンス。

この2つによって正しい病態推論が導かれ、私たちにとっては「正しい施術」と、必要な場合のタイムリーな「医師との連携」が可能になるのだと言えるでしょう。

すなわち、患者さんとしっかりと向き合うことが、できるようになるのです。

まとめ

このように「問診」「身体所見」という最もプリミティブなスキルをフル活用しつつ、毎日患者さんを注意深く拝見し、常に「振り返りと反省と工夫と教訓化」を継続し、これを日々アップデートしていくことで、病態推論の精度はますますブラッシュアップされ、本当に多くのことが可能になっていくのですよね。

これは医療分野に限らず、その他の多くの仕事にも共通することなのではないかと思います。

必要なのは何といっても基本。

そしてその基本を決しておろそかにせず愚直に行い続けること。

そうやって「真実」を見つける努力を片時も怠らず、

「思い込み」に支配されることのないよう、

日々「振り返りと反省と工夫と教訓化」を行い続ける。

このシンプルな取り組みを毎日続けることによって、成長は着実にもたらされるのではないかと思うのですよね。

 

さて、今回のお話はこれで終わります。

今回の総論を踏まえて、次回からは「あっと驚かされたいろいろな症例」を、具体的に詳しく分かりやすく紹介させていただきながら、皆さんとご一緒にたくさんのことを学んでいけたらと思います。

僕は多い年で年間500通の紹介状を専門医に書いてきましたが、それらはすべて、自分で診察した結果「僕が施術していて良い患者さんではない」と判断した症例です。したがってそのすべてに多かれ少なかれ“驚き”がありました。

全部合わせると何千症例もあるかと思います。

その一つ一つに患者さんお一人お一人のドラマがありました。

どうかお楽しみに。

(今回から僕の連載は奇数月のみの配信となります。次回は来年1月1日配信となります。)

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